2018年04月18日

「高岡御車山」考(2)-車輪④・二輪

  
     4月ももう下旬に入って、そろそろ高岡御車山祭が近い。
      そんな、時宜を踏まえ
 今回のテーマは、
     二番町以外の六基の曳山は「四輪」(四枚車)
                              であるのに、
 二番町の曳山だけが何故、「二輪」なのか
                           とする。

  私の持論は、実はすでに本ブログに書いてしまっている。
     2017/04/25 「高岡御車山」考(0)1-祭を篤く娯しむ
                               を、乞うご参照。

     
                                         2014.5.1
  とはいえ、どうもあまり多くは読まれてもいなさそうなので、
  ちょっとズルして、コピペしながらも更に展開させてみよう。

 (1)由来

  高岡御車山は、「車輪」を象徴として400年間維持されてきた。
 それはきっと、高岡町に前田利長から拝領したのが、
                      「車輪」だったからに違いない。
 山町(やまちょう)が苛烈に攻撃した「安永の曳山騒動」(1775)でも、
 放生津(新湊)の曳山に対して執拗に要求したのは、
            高岡と「似寄りの車」の使用差し止めであった。
    
       安永四年八月三日 
        「本多安房守、放生津曳山のにつき尋書」 射水市新湊博物館・蔵
     

 この車輪の由来は、後陽成天皇の聚楽第行幸の際に、
   豊臣秀吉が御所参内に使用した牛車(ぎっしゃ)を、
    前田利長が高岡の山町に下賜したものとされている。
                         ※ 詳細は高岡御車山会館の展示をご覧あれ。

 

            『御所参内・聚楽第行幸図屏風』(「上越市立博物館パンフレット」より)

  その姿を今に留めるのが、「二枚車」の二番町の曳山である。
     
                          2014.5.1 二番町曳山の「二枚車」の車輪        

 (2)事由
  利長が高岡町(当時)に、
 牛車もしくは車輪を下賜した事は、事実であったに違いない。
  祭具として与えられたならば、
   「関」氏(江戸~昭和の関野神社の神主)が預かったのだろう。
 そして、少し話は変わるが、
  最も初期に「高岡御車山」を所持したのは、「守山町」であった。
  こんな記録が残っている。
    一、(慶長)十六年(1611)三月、守山中町より鉾車山、
      神輿供奉として献上す、木舟町も亦献上す、
      他町々より傘鉾を献す、

             「車曳山之由来」『高岡市史料集』第一集 p.22
  即ち、「関」氏からは守山町に譲渡された可能性が極めて高い。
     
                                  関野神社と紫木蓮 2012.4.21
 扨て、
  当然、最初期の「高岡御車山」は牛車と同じく、「二輪」だった筈だ。
  二番町の曳山が、何故、「二輪」なのか?守山町の筈なのでは?
 とすればここで、守山町と二番町との関係が大いに問題となる。
    上記で守山町が、守山中町と記載されているが、今はスルー。
  こんな記載があって、極めて重要なのではないか、と思っている。
       古書にたまたま守山二番町とあるものみへたり、
      是ハ古き守山より出たるゆへ二番といひたるなり、
      当時二番町も此由縁あり、

             「守山町々名并釘貫紋之由来」
                        『高岡市史料集』第一集 p.22
  「守山二番町」という町名に関して、守山町と二番町は、
                      共通の由縁を持っていたという。
  上掲・下記の文章から言えるのは、高岡開町の頃には
 二上山麓にあった城下町・守山町から来た人たちによって
   「守山二番町」=守山町Ⅱ(=No.2)が高岡町に出来したこと。
      推測するに、御馬出町が成立したことによってであろうが、
    これが分割されて現在の守山町二番町になったと思われる。
      ※ 二番町の町名由来を「高岡開町後、二番目に出来た町」
        とする巷説には与(くみ)し難い。二番町・一番町・三番町の
        位置関係から推して 頗る不自然と言わざるを得ない故。

            
                                「高岡旧町名マップ」高岡商工会議所
 そうして、守山町のアライベ(新家=分家)ともいうべき二番町に、
  いわば「独立記念」の贈答品のような形で、守山町から、
   古くなった、本来の、利長ゆかりの曳山が譲渡された、
                    (多分、有料)・・・と私は考えている。
 こうして二番町は、創始以来の高岡御車山の姿かたちを、
 宵祭の儀式ともども、現代まで受け継ぎ伝えて来た、と思われる。

  いくら斯様に力説してみても、そんな記録・証拠はどこにもない。
 そこで私は目を皿にして、両町の縁戚関係を示す手懸かりを求め、
 「守山町」と「二番町」とだけに共通し、他の山町には無い特徴を、
 全ての曳山の姿形をじっくりと眺め、比較しながら調べ直してみた。
  少し弱めだが、両者にのみ共通する特徴を一つだけ見つけた。
  よ~くご覧あれ。
  地車に対する芯柱の位置が、両町の曳山は他の五台と異なる。
  両町ではより前方にあり、他五台はほゞ中央に立てられている。
 
 
                      2017.3.11 筆者作成のppt.『高岡御車山を識る』より
  如何でしょうか?
  
 (3)理由
  二番町以外の六基の曳山は、四輪(四枚車)なのであるが、
 これはどうも、
  他の山町が、バランスと利便性、豪華さの演出を優先させて、
 二輪であるよりも、寧ろ、四輪の方を選択したものと見られる。
  但し、四輪を「発明(?)」したのは、山町ではなく、
              「先宮」を奉斎していた「木町」であったらしい。
       先宮に関しては、更に話が複雑になるので、後日。
   察するに、牛車を下賜されなかった木町が、
  山町に対する敵愾心からか、独自に「四輪」としたものらしい。
   こんな文書が残されているからである。
      木町曳山之儀ハ・・・、山(やま)出来仕(しゅったいつかまつり)
      四つ車を以(もって)御城(へ)引申ニ付、
             ・・・(延宝)四年(1676)(より)中絶仕候、・・・
           「高岡御車山記録」『高岡市史料集』第四集 p.22
  どうやら古くは、「木町」にも曳山が存在していたらしいのである。
  
  以上。
   本論へのご異見、大歓迎します。是非お寄せ下さい!
                        ヒマ爺でありますので。 頓首

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Posted by タルさん  at 17:05 │Comments(0)『山を観る』-高岡御車山

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