2022年06月28日

六月下旬

 
                                     2022.6.28 我が家の庭にて
  猛暑が続いていますが、唯一、我が家で元気なのは、庭の
 アジサイだけみたいです。住人のジジババはぐったりしてます。
  とはいえ、私にとっての「怒涛の六月下旬」が漸く過ぎました。
     でも、大好きな『カナカナ』も終わってしまうので、寂しい。

  6月23日(木)は博物館に親しむ会の第35回・歩く博物館で、
 「山町筋と金屋町の「中間地帯」を探索する」
 を実施しました。
  無風にして快晴、最高気温33℃。地獄の一丁目を歩いている
 ようでした。五日経つ今も、腰痛と日焼けの痒みが残っています。
  以下、博物館員の撮られた写真を勝手に借用して、
                          当日の報告を、簡単に。
  午前10時、木舟町バス停に集合。目の前は昭和通りですが、
 南に末広坂、北に川原町への坂を眺め渡すことができます。
  
  山町筋を上ります。
  木舟町一番地に金田眉丈さんの呉服店が有ったことなどを
 お話しし、守山町の高岡信用金庫の本店前へ。
  
  同店は、幕末の勤皇志士であった逸見文九郎の生家跡で、
 高原屋という蔵宿を営んでいたそうです。
  通町(とおりまち)へ。往還道(北国街道)と戸出往来が交差して
 います。
  
  右折(←)して、旅篭町(はたごまち)へ。(左手(→)は鴨島町) 
  
  『奥の細道』の旅の途次、元禄二年(1689)7月14日に、
 松尾芭蕉は高岡に宿泊していますので、多分、旅篭町に
 宿を取ったに違いなく、「葵谷屋」という宿だとも伝えます。
  旅篭町の入口に川巴良諏訪神社があります。
  
 傍らの道路は物凄いクランクで、ブレーキを踏まずには、
 運転できません。高岡開町≒江戸時代も最初期以来の
 「桝形(ますがた)」の残存でしょう。すぐ側に、高岡で最初の
 花街(色街?)ができました、が、全く痕跡は有りません。

  中島町を抜け横田橋を渡って、金屋町へ向かいます。
  
  ここが本来の金屋町への入口です。横田袋町を通って、
 金屋町へと入ります。
  
  金屋町の入口にもまた、桝形が設けられていたようで、
 ここにもクランクの跡が見られます。
  金屋町は、素直に?素通りします。で、内免町へ。
  
  金屋と内免とでは、道路の舗装にも差が有ります!
  榑(くれ)葺きの石置き屋根の家が、今も残っています。
  
          『高岡 児童文化』No.60/1979 「高岡今昔風情シリーズ1」
  昭和54年(1979)に、お向いの吉野さん宅の二階から
 眺めさせてもらって、市山さんに描いて頂きました。
  で、冗談みたいな細い道路を通り抜けて、内免橋へ。
  
  千保川が一定の水位を超えると、この橋は、上昇します。
 そのための、ギザギザ、です。
  大町に向かい、かつての高岡紡績の痕跡を眺めます。
 が、ツタに覆われて、何にも見えませんでした。
  
  本当はこんな姿。レンガ製の糸車のレリーフがあるのです。
  
              『VITA』No.29/1997.6 「雑学ノート・高岡紡績の工場跡」
  ついに最終地点に向かいます。体力も、ほゞ限界に来てます。
  かつての「瞽女町」です。
  
 宇奈月温泉にある延対寺荘のルーツは、ここにあります。   
  私、すっかり疲れ果ててしまい、かつての開正寺はここ、
 かつての望世喜楼がここ、勇木楼があちら、と、座り込んだ
 まんまで、案内してしまいました。
 参加者の皆さん、ゴメンナサイ!!

  6月25日と翌26日の講演会については、いずれまた。
                思い出すだけでも疲れたジジ、頓首

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Posted by タルさん  at 17:38Comments(0)郷土史・観光