2017年09月15日
「高岡御車山」考(2)-車輪②・記録
高岡御車山の
「車輪」に関する由緒来歴の記録が、残っている。
それは、山町(+関野神社 )と木町(+守山極楽寺 )とが
曳山祭の正統性をめぐって
苛烈にも死闘の如くに諍(あらそ)って「山町」が勝利し、
山町が12月の雪降る中で曳山を廻したという
「宝暦の曳山騒動」(1761~1762)〈詳細は後日〉の際に、
山町から提出された文書として示されている。
2006.5.1 二番町の曳山
高岡御車山の「車輪」を考える(2)
「御所御車」の由緒について (筆者による現代語訳)
一、「御所御車の由緒」について
前田利家が慶長2年(1597)、伏見城下の屋敷に居た頃に、
(豊臣秀吉から)聚楽第を拝領致しました。
この(聚楽第の)御殿に附随した品々の中に、
(御所御車が)ありました。
前田利長が高岡城を築城した時分、この(聚楽第の)御殿は
慶長10年(1605)頃には江戸表へ引き取られており、
お道具などの分は、
こちら(前田利長の許)へ引き取られましたが、
その内の、(豊臣秀吉が京の御所への)参内(に使用された)
「御傘」、白木の(・・・「白木」か?)「御輿」「御車」については、
きわめて貴重なものとされておりました。
慶長15年(1610)、
(前田利長が)「神輿」を(高岡へ)寄進なさったので、
当該の「御車」については(関野神社の)氏子の町々へ
祭具として拝領するよう仰せ付かり、
「曳山」を拵(こしら)えて「神輿」に供奉をするよう厳命されました。
(高岡)城の中へ曳き入れさせて頂くので、(加賀藩)領内では
他の祭礼に似寄りの「御車」があってはならない、ということで
山町は勿論、(高岡の)他の町内や、よその町村の者たちも、
みな昔から「御所車祭」と讃え称されて伝えられてきたのです。
言い伝えられてきたとはいうものの、
書類(記録)などがありません。
併せて申し上げますが、
(高岡)城の中へ慶長15年(1610)以来、
山町の町々より飾り立てて「神輿」に供奉致してきたことは、
(関野神社の神主の関)三河守の方の由緒に
委細が記されております。
宝暦12年(1762)7月
山町の各山役員代表 連署名・印
2014.5.1 関野神社の神輿at博労町
扨て、
上記の文章だが、我ながら、恠!
筆者はどう足掻いても「古文書」には「シロウト」であるし、
筆者は元より読者諸氏の不安感も拭えそうにないので、
ご批判を仰ぐためにも、以下に、原文を示しておきたい。
「御所御車由緒之儀」 (『高岡御車山記録』より)
十四日指上候書付之写
去年五月最初指上候書付之内
御尋ニ付申上候
一、御所御車由緒之儀
高徳院様 慶長貮年伏見御在館之節、聚
楽亭御拝領 右御殿ニ相添居申品之内ニ有、
瑞龍院様御当城御築之砌、右御殿ハ慶長
十年之頃江戸表江御引取御道具等之分ハ
御当処江御引取為遊候内、参内御傘白木
御輿御車之儀者、重キ品と申御儀ニ御座候
慶長十五年神輿御寄進被為成候ニ付、右御車
之儀ハ産子町々江祭器ニ御拝領被為仰付、奉
蒙厳命曳山相拵神輿供奉仕、御城中江引
入申ニ付、御領国他之御祭ニ似寄申御車茂
難成筋と曳山町ハ不及申上、外町或ハ余宿之
者共ニ至迄、往古ゟ御所車祭と申伝居申儀ニ
御座候、右御車御拝領被為仰付候与申儀伝承
仕罷有候得共、書物等者無御座候、併御城中江
慶長十五年以来曳山町々ゟ錺立神輿供
奉仕候儀者、三河守殿方由緒ニ委細相調御座候
・・・ ・・・
午 七月 曳山町々組合頭
連名印
高岡町
御奉行所
右由緒伝承之趣、書上申ニ付上之申候、以上
町肝煎 梅染屋
仁右衛門
同 三木屋
半左衛門
同 高原屋
儀左衛門
『高岡市史料集-高岡御車山記録-』 第四集
(高岡市立中央図書館 1995) p.61~62
如何でしょうか?
厳然と「記録」が存在するとはいえ、
筆者は、・・・ この由緒の多くの部分を、
関野神社の神主だった関三河守が作成したのではないか?
と疑っている。
この項つづく
現代語訳のミスの指摘など、
多数のご意見、ご批判をお待ち致して居ります。
九月蚊(うるさ)い(?)酔爺、頓首
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をご照覧下さい。
「高岡御車山」考(3)-巡行①・曳順
「高岡御車山」考(2)-車輪④・二輪
「高岡御車山」考(2)-車輪③・仮説
「高岡御車山」考(番外)-築山①・放生津
「高岡御車山」考(0)-③山町の夏祭り