2016年10月17日
司馬遼太郎との小さな憶い出
とある日曜日、富山市民俗民芸村の最奥に、考古資料館を訪ねた。
県公文書館で「とやまの観光 むかし・いま」を眺め、
県埋文センターで「霊峰立山-立山信仰を探る-」を参観して、
途中、長岡御廟を訪ねて写真撮影したその足で、上記資料館で
「とやまの弥生王権-神通川と日本海交流-」を鑑賞して来た。
出無精(デブ性?)な私にとっての、久方ぶりのミニ旅行だった。
資料館の常設展が面白かった。
当館は、見かけこそ冴えないが、物凄い実績を持っているのです。
昭和56年(1981)に第1回が開催され、以後10回を数えた
『日本海文化を考える富山シンポジウム』を引き継いだのが当館だ。
※実際は富山市社会教育課→生涯学習課・主催
そういえば、シンポが開催されたのも概ね、10~11月だった。
以下は、このシンポを聴講した筆者の、ちょっとした憶い出話である。
何回目だったのか、きちんとした時期は覚えてはいないのだが、
当初、シンポジウム前日には、有料のレセプションが開かれていた。
酒が苦手な私だが、これは大嘘、呑めるゾ!と期待して参加した。
筆者が32~35歳ぐらいの頃のことだ。
宴の場で、司馬遼太郎を見つけた。色んな人たちが彼を囲んでいた。
ミーハーな私は、何とか自分も一言なりとも交わしたくて仕方なかった。
が、仲々チャンスが訪れない。フッと、人垣が消えた。・・・しめた!
司馬さんに見えるように、備え付けの一合枡を大袈裟に手に取って、
酒樽から柄杓で注ぎ、かなり態(わざ)とらしく、グイっと呑み乾して見せる。
勿論、彼の視線を知らぬかの如く、である。ここでプロは、否、私は、
枡の滴を大きく切って、徐(おもむろ)に司馬さんに視線を当てて、近寄った。
何ぞ無気(なんぞなげ)を装い(気持はドキドキ)、その一合枡をひっくり返して、
「司馬さん、ここにサインしていただけませんか?」
と申し出た。
「面白い!これはアナタの発明ですか?」
えぇっ?単なる思い付きですが、ま、曖昧に頷くと、サインして頂いた。
私、正直言って、有頂天でした。
「『峠』、素敵でした。でも、前篇があんなに面白いのに、後編は・・・」
「そんなもんですヨ。」
例のヒンガラ目(差別用語だったら、ゴメン!)でニッコリと答えて下さった。
と、ここまでは良かった。
が、とんでもない展開が待ち受けていた。
このなりゆきをジッと観察していた、と思(おぼ)しきオバサマ軍団が、
ドッと一合枡を掴み取って、私らの許へと押し寄せなすったのである。
すると司馬さんが思いもよらぬ大声で、
「これは、この人(私=筆者!)の考えたことでしょう!
アナタ方は、この人のマネをしているだけじゃないですか!」
と言うや否や、プイとその場を去って行ってしまったのであった。
まだ若かった私としては、その場をどうとも執(と)り成しようがなかった。
さて、そこで、・・・どうだ!
と、そのときのサインをここに載せればカッコイイのではあろうが、
世間周知の如くイイ加減な私は、嬉しくって嬉しくて、その一合枡で、
毎日毎日、溢れる程の酒を呑んで呑んで呑みまくったのであります。
フト気付いたら、ボールペンのインクはすっかりけんと消えていて、
とても「鑑定団」には出せる状態でなくなっていた、というオソマツ!
現状報告。右に筆者姓、中に名+様。最左に司馬生と、本当はある。
それから1~2年後だろうか、また、レセプションで司馬さんと遭った。
「司馬さん。私のこと、覚えてらっしゃいますか?」
と訊いたら、
「ええ、覚えていますよ。」
ニッコリ笑顔で、嬉しい返事が戻って来た。ヒゲと長髪のお陰だろう。
「またこれに、サインお願いできますか?」
「はい。いいですよ。」
やったぁ~、みたいなミーハー感はこの時は、なかった。が、
待てど暮らせど、サインが仕上がらない。
でも、司馬さんは確かに、何かを書いてらっしゃる。
ちょいちょい、悪戯っぽい目でこちらを覗ってらっしゃったのだが、
些かいぶかしく感じるくらいに、これは、時間が長かった。
その時のものが、下の写真である。
だいぶん酒で溶けかかっているが、お判り頂けるだろうか?
何と、右上に、私の顔をスケッチして下さっていたのだ!
左下に司馬生とある。
これは、絶対にお金にはならないけれども、私の「家宝」なのである。
あんまり嬉しかったので、横にも先生たちのサインを頂いてしまった。
今度こそは酒を呑むんじゃなかった!
と、今頃になって反省しているのだが、この一合枡もまた、
ほとんどのサインが酒のせいで、消えてしまいそうになっている。
後悔先に立たずたぁこのこった!ガハハ!皆さんはお気を付けを!
と、数十年ぶりに棚の奥から引っ張り出して、ホコリを拭い、
今夜はこれを眺めながら、酒を呑む。
本当は、こいつで呑むと、実に旨い!のだがナァ。
・・・いま現在は、「若駒」純米を茶碗で四杯目。かなり利いてきている
かにかくも祇園は恋し・・・私は、困った呑ン兵衛ジジィなのであります。
蛇足ながら、
1.高岡市駅前のウィングウィング1階に、
司馬遼太郎『菜の花の沖』の主人公・高田屋嘉兵衛に因んだ
「高田屋」という蕎麦居酒屋がある。
2、射水市(旧・新湊市)六渡寺の日枝神社には、
北前船の航路を開拓し、後には高田屋嘉兵衛を援助した、
「北風荘右衞門」家の寄進になる玉垣が残る。
※ かにかくに、は、「も」の方ががいいと思いますヨ、吉井さん!
酔ジジ、頓首
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県公文書館で「とやまの観光 むかし・いま」を眺め、
県埋文センターで「霊峰立山-立山信仰を探る-」を参観して、
途中、長岡御廟を訪ねて写真撮影したその足で、上記資料館で
「とやまの弥生王権-神通川と日本海交流-」を鑑賞して来た。
出無精(デブ性?)な私にとっての、久方ぶりのミニ旅行だった。
資料館の常設展が面白かった。
当館は、見かけこそ冴えないが、物凄い実績を持っているのです。
昭和56年(1981)に第1回が開催され、以後10回を数えた
『日本海文化を考える富山シンポジウム』を引き継いだのが当館だ。
※実際は富山市社会教育課→生涯学習課・主催
そういえば、シンポが開催されたのも概ね、10~11月だった。
以下は、このシンポを聴講した筆者の、ちょっとした憶い出話である。
何回目だったのか、きちんとした時期は覚えてはいないのだが、
当初、シンポジウム前日には、有料のレセプションが開かれていた。
酒が苦手な私だが、これは大嘘、呑めるゾ!と期待して参加した。
筆者が32~35歳ぐらいの頃のことだ。
宴の場で、司馬遼太郎を見つけた。色んな人たちが彼を囲んでいた。
ミーハーな私は、何とか自分も一言なりとも交わしたくて仕方なかった。
が、仲々チャンスが訪れない。フッと、人垣が消えた。・・・しめた!
司馬さんに見えるように、備え付けの一合枡を大袈裟に手に取って、
酒樽から柄杓で注ぎ、かなり態(わざ)とらしく、グイっと呑み乾して見せる。
勿論、彼の視線を知らぬかの如く、である。ここでプロは、否、私は、
枡の滴を大きく切って、徐(おもむろ)に司馬さんに視線を当てて、近寄った。
何ぞ無気(なんぞなげ)を装い(気持はドキドキ)、その一合枡をひっくり返して、
「司馬さん、ここにサインしていただけませんか?」
と申し出た。
「面白い!これはアナタの発明ですか?」
えぇっ?単なる思い付きですが、ま、曖昧に頷くと、サインして頂いた。
私、正直言って、有頂天でした。
「『峠』、素敵でした。でも、前篇があんなに面白いのに、後編は・・・」
「そんなもんですヨ。」
例のヒンガラ目(差別用語だったら、ゴメン!)でニッコリと答えて下さった。
と、ここまでは良かった。
が、とんでもない展開が待ち受けていた。
このなりゆきをジッと観察していた、と思(おぼ)しきオバサマ軍団が、
ドッと一合枡を掴み取って、私らの許へと押し寄せなすったのである。
すると司馬さんが思いもよらぬ大声で、
「これは、この人(私=筆者!)の考えたことでしょう!
アナタ方は、この人のマネをしているだけじゃないですか!」
と言うや否や、プイとその場を去って行ってしまったのであった。
まだ若かった私としては、その場をどうとも執(と)り成しようがなかった。
さて、そこで、・・・どうだ!
と、そのときのサインをここに載せればカッコイイのではあろうが、
世間周知の如くイイ加減な私は、嬉しくって嬉しくて、その一合枡で、
毎日毎日、溢れる程の酒を呑んで呑んで呑みまくったのであります。
フト気付いたら、ボールペンのインクはすっかりけんと消えていて、
とても「鑑定団」には出せる状態でなくなっていた、というオソマツ!
現状報告。右に筆者姓、中に名+様。最左に司馬生と、本当はある。
それから1~2年後だろうか、また、レセプションで司馬さんと遭った。
「司馬さん。私のこと、覚えてらっしゃいますか?」
と訊いたら、
「ええ、覚えていますよ。」
ニッコリ笑顔で、嬉しい返事が戻って来た。ヒゲと長髪のお陰だろう。
「またこれに、サインお願いできますか?」
「はい。いいですよ。」
やったぁ~、みたいなミーハー感はこの時は、なかった。が、
待てど暮らせど、サインが仕上がらない。
でも、司馬さんは確かに、何かを書いてらっしゃる。
ちょいちょい、悪戯っぽい目でこちらを覗ってらっしゃったのだが、
些かいぶかしく感じるくらいに、これは、時間が長かった。
その時のものが、下の写真である。
だいぶん酒で溶けかかっているが、お判り頂けるだろうか?
何と、右上に、私の顔をスケッチして下さっていたのだ!
左下に司馬生とある。
これは、絶対にお金にはならないけれども、私の「家宝」なのである。
あんまり嬉しかったので、横にも先生たちのサインを頂いてしまった。
今度こそは酒を呑むんじゃなかった!
と、今頃になって反省しているのだが、この一合枡もまた、
ほとんどのサインが酒のせいで、消えてしまいそうになっている。
後悔先に立たずたぁこのこった!ガハハ!皆さんはお気を付けを!
と、数十年ぶりに棚の奥から引っ張り出して、ホコリを拭い、
今夜はこれを眺めながら、酒を呑む。
本当は、こいつで呑むと、実に旨い!のだがナァ。
・・・いま現在は、「若駒」純米を茶碗で四杯目。かなり利いてきている
かにかくも祇園は恋し・・・私は、困った呑ン兵衛ジジィなのであります。
蛇足ながら、
1.高岡市駅前のウィングウィング1階に、
司馬遼太郎『菜の花の沖』の主人公・高田屋嘉兵衛に因んだ
「高田屋」という蕎麦居酒屋がある。
2、射水市(旧・新湊市)六渡寺の日枝神社には、
北前船の航路を開拓し、後には高田屋嘉兵衛を援助した、
「北風荘右衞門」家の寄進になる玉垣が残る。
※ かにかくに、は、「も」の方ががいいと思いますヨ、吉井さん!
酔ジジ、頓首
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