2016年09月10日

獅子の胴がナゼ長いのか?

 -百足獅子の系譜-


  40年前(昭和49年=1974)の2月、一回り歳上の友人・高嶋俊隆さんと
 山形県の「黒川能」を観に行った。二日間に及ぶ宗教的祭事に不眠不休で
 臨み、衝撃的な感動の中で図らずも民俗芸能に目覚め、帰りの寝台列車で
 酔思廻考した挙句、自分の足許で富山県の「獅子舞」を再発見してしまった。
  この年以来、数年間で何十ヶ所もの県内の獅子舞を見巡り始めたのは、
 同年、すなわち筆者25歳の春4月からであったことを憶(おも)い出す。
  ほゞその頃、同級生(寺の娘)からスリランカの学僧の接待を一日頼まれ、
 夜、天狗が松明(たいまつ)で踊る六渡寺(ろくどうじ)(射水市)の獅子舞を見に行った。
   獅子舞を見ながら私は「したり顔」で、
  「これは日本の、ライオン・ダンスだよ」
   と紹介したら、間髪を入れず驚くほどの大声で、
  「違う!これは、ゴールデン・ドラゴンだ!!」
   と、食い入る様に眺めていた彼は言い放った。
  エッ?と訝(いぶか)った次の瞬間、
 自分の眼から鱗が一枚 ハラリと落ちた、あの感触を、私は今も忘れない。

 日本の獅子舞
  メソポタミア地方で紀元前10世紀以前から栄えたアッシリアでは、
 王は、「ライオン(獅子)狩り」によって権威を示し、
  古代エジプトでは、ライオンは王のペットですらあった。
  インドでは紀元前3世紀にアショーカ王が仏教に帰依し、
 仏典で釈迦は獅子(ライオン)に譬(たと)えられた。
  こんな歴史の綯(な)い混ざった文化がペルシャからシルクロードを経て、
 中国(呉か?)に至って醸成された「師子(しし)(舞)」が、伎楽の一部として
 飛鳥時代に日本へ伝来し、今日の獅子舞のルーツになったと考えられる。
  すなわち元来、獅子舞は「ライオン」を模したものであり、四足動物である
 べく、胴幕に二人が入って、前脚(=頭部)と後脚(=尾部)を形成する。
   これを、二人立ち獅子=西日本型、と呼んでおく。
  一方、東北地方を中心に(多分、縄文・弥生時代に起源をもつと見られる)
 「鹿踊(ししおどり)」という「鹿」の頭を一人ずつ覆物(かぶりもの)にして踊る芸能が
 あって、これと習合したと考えられる獅子舞が数多く見られる。
   これを、一人立ち獅子=東日本型、と呼んでおく。
  どうやらフォッサマグナを境にして、北海道を除く日本全土の東と西で、
 この2種の獅子舞が棲み分けて、ほゞ覆い尽くしているように見られる。
  ところがここに、獅子舞は、更なるキメラを人知れず生み出していた。
  胴幕には三人以上、時には10人以上も入るという長大な獅子で、
 胴の下に一対の足が無数に続く形状から、ムカデ(百足)獅子と呼ばれる。
 我われ、富山県・石川県の人たちが馴れ親しんでいるのがこの獅子舞で、
 分布域に即して、当地のものは「加越能型」、と呼んでおこう。
  だが、ムカデ(百足)獅子の「群生地」は一人我が故郷だけではなかった。
 管見によれば他に二つの地域があったので、ここで共に紹介しておこう。
 但しこの2者は、実見しないままのインターネット検索による知見に過ぎず、
 また、その分類呼称を筆者が独断で付したことを、先にお断りしておく。

 南信濃(伊那谷)・・・長野県
  天竜川の上流域、飯田市を中心として駒ヶ根までの伊那谷に、50~60の
 ムカデ獅子が分布する。 当地において特徴的なのは「屋台獅子」で、
 胴幕の中に幅2m・長2.5m・高2.5mの屋台が組み込まれ、胴部の全長が
 10mもある。胴幕は竹の骨で蛇腹になっていて、中に獅子頭を持つ人を
 含めて15人ほど入るようである。
  その源流とされるのは天台宗の大島山瑠璃寺(下伊那郡高森町)の獅子舞
 で、県の無形民俗文化財に指定されている。
  同じ天台宗の宝積山光前寺(駒ヶ根市赤穂)には、元和6年(1620)に制作
 された「青獅子」があるが、雨乞い信仰と深く関わっていることから龍だとも
 伝える。また、陵王(龍王)・宇転王(優填王(うでんのう))の二つの面が残され、
 これらを用いて行われていた獅子舞が、瑠璃寺の本家だとも見られている。
  
   「瑠璃寺の獅子舞」長野県下伊那郡高森町
                     写真・小川文雄氏提供

 南羽前(西置賜)・・・山形県
  最上川の上流域、長井市を中心に白鷹町までの旧・西置賜郡あたりに
 100以上ものムカデ獅子が分布し、胴幕には少なくても5~6人、多い所
 では30人くらいも入る。
  中でも「長井の黒獅子」がよく知られているが、その元祖と目されるのは
 總宮神社のある宮地区だという。当地は昔から野川の洪水に悩まされ、
 「卯の花姫」にまつわる龍神伝説が残されている。そのため黒獅子は、
 川の上流に棲む龍神を年に一回お招きして、村を水害から守って貰って
 豊作を祈る、村人たちの思いが込められてきたと伝える。
  
   「長井の黒獅子」山形県長井市  写真・長井市観光協会提供

 加越能・・・富山県・石川県

   
   「加賀獅子/百万石まつり」石川県金沢市  2014.6.7撮影

  ところで、わが故郷の「獅子舞の胴体はナゼ長いのか?」に対する由緒・
 伝来は管見の限りでは知られておらず、また、発生に関する定説もない。
  ただ、前記2地域のムカデ獅子は、龍神信仰に由来するものであった。
 そこから類推するに、我がムカデ獅子もまた同じく「龍神」を模して、前2者と
 同様の形態を持つに至ったと見てもよいのではないかと考えられる。更に
 私見では、「加越能型」発祥の地は白山々麓(石川県白山市)と睨んでいる
 が、今のところ何ら確証がない。とはいえ当地のムカデ獅子の分布域として
 石川県・手取り川より東~(能登)~富山県・神通川より西の域内において
 大型のものが濃密であり、当該域は巷説ながら「白山水系」と称されている。
       *加賀馬場から美濃馬場にかけての「白山信仰」圏内の意か?
  「九頭龍権現」は、白山に坐し、立山に遊び、戸隠に降り 賜うている。
  水の信仰に関して言えば、射水神社(式内社/高岡市二上)の境内にある
 天乃真名井(あまのまない)なる湧水地に「ゲンダイ獅子」が降臨したと伝え、これは
 「龍神」ではないのかとの論争もあった(「高岡新報」昭和3年9.6付5面)。
              
  近隣の二上・守山地区の獅子舞には「ハハ」という演目があり、平安時代
 に成立した『古語拾遺』によれば、「ハハ」は「大蛇」の意味だとされている。
  更に、富山県氷見市の上庄谷では、慶応3年(1867)に大縄で「大蛇」を
 象(かたど)ったものを用いて「雨乞い」をしたという記録が残されている。
       『県営上庄川沿岸用水補給事業/事業誌』富山県1954
  卑近な例からも 富山県では歴史的に「龍神」が身近な存在だったようだ。
  ・・・以上の様に私は、ムカデ獅子は「龍神信仰と獅子舞の習合した姿」と
 見たが、本説に最初に興味を示して下さったのは故・佐伯安一さんだった。
 佐伯さんに誘われ、獅子舞についての試論を私が30歳代のころに富山の
 とある民俗の会で勢い込んで披歴したものの、反応は、冷淡死寂であった。
  然(さ)らば30数年後の現今や奈何(いかん)、と老後再説してみた次第である。

    『VITA』No.100(富山県いきいき長寿センター/2015.3)の拙稿
                        「伝承を訪ねて」より加筆引載

  

 
     龍蛇のごとく「トグロを巻く」 高岡市上牧野の獅子舞 2014.4.12撮影


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Posted by タルさん  at 09:43 │Comments(0)獅子舞

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